2月18日、名古屋国際会議場で彰人を下してV3に成功した秋山準の「お前、フリーだろ? 証が必要だろ。このベルトがあったら動きやすいだろ? だから、俺とプロレス、ガッチガチの試合をやれ。それで勝ったら、お前、ここDDTでも生きていけるぞ」という逆指名で決まった3・21後楽園ホール『Judgement2023~後楽園史上最長5時間スペシャル~』における秋山vs鈴木鼓太郎のEXTREME戦。思えば、鼓太郎が昨年12月からDDTに参戦するようになったのも秋山の誘いがきっかけだが、この2人は師弟関係ではない。
鼓太郎はプロレスリング・ノアの入門テストに合格してデビューした生え抜き第1号で、三沢光晴の付き人を務めていた。ノア時代の秋山はスターネスなるユニットを結成し、三沢と常に対角線で向き合う立場を取っていたこと、鼓太郎はジュニアヘビー級ということもあって、2人の関係は濃密というわけではなかった。
そんな2人が結びついたのは2012年3月。秋山が「ノアを旗揚げ当時の勢いのある、気持ちのある、そんな団体に戻したい」と潮崎豪、鼓太郎、青木篤志に呼び掛けたのである。三沢の遺伝子(鼓太郎)、自分の遺伝子(青木)、小橋建太の遺伝子(潮崎)を結集させてノアを再興しようと考えたのだ。09年6月13日の三沢急逝から「三沢さんのプロレスを伝えたい。三沢さんが亡くなった後にファンになった人の中には、三沢さんを知らない若い人もいる。そういう人に俺は伝えたい」という強い気持ちを持っていた鼓太郎は、秋山と合体。そしてS・A・Tというユニットが生まれた。
ここに小橋の初代付き人で秋山から大きな影響を受けた金丸義信の5人が13年2月から全日本プロレスに登場。それが第3次BURNINGである。その歴史を考えれば、鼓太郎がDDTで第4次BURNINGと共闘しているのは自然な流れなのだ。
だが、秋山と鼓太郎の蜜月は、長くは続かなかった。全日本移籍後の13年11月、鼓太郎はさらなるステップアップを目指して潮崎、青木とともにBURNINGを脱退してXceedなる新ユニットを結成。ここに宮原健斗が加わっていたのも、今となっては面白い事実だ。
そして15年11月末、鼓太郎は全日本を退団。シリーズの途中ということで、12月6日の大阪での最終戦まで出場して筋を通したが、社長だった秋山にとっても、去る鼓太郎にとっても複雑な別れだったのは想像に難くない。
それから2年8カ月……鼓太郎は17年8月にフリーとして全日本に上がった。裏切り者のイメージがある鼓太郎へのファンの風当たりは強かった。そうしたなか、秋山は10月5日の新木場で鼓太郎と一騎打ちを行い、ニーパットを外した右膝で顔面にランニングニーを叩き込み、リストクラッチ式エクスプロイダーで完勝すると「このちっちゃな場所で俺がお前と一騎打ちしたという意味合いを考えろ。それなりの覚悟があって来たんだと思うから、それをこれから一戦一戦出して、もっともっと自己主張しろって! ちゃんと言葉に出して、皆さんに表現して、自分はどういうものなのか、何を求めているのか、しっかり話せ。そうじゃないとお前の居場所はない」とまくしたてた。それは逆風にさらされる鼓太郎へのエールに聞こえた。
この言葉は名古屋での逆指名と通じるものがあるような気がする。離れ離れになっても、秋山は常に鼓太郎を気にかけてきたのだろう。
しかし、今回のタイトルマッチは、そんな私的な感情だけで実現するのではない。秋山はEXTREME王者になって以降、スーパー・ササダンゴ・マシン=トントン相撲、アントーニオ本多=モノボケデスマッチ、彰人=環境利用闘法マッチと、自らのフィールドを広げる防衛戦を続けてきたが、DDT26周年記念という舞台で、あえてジャイアント馬場から継承してきた正統プロレスを見せようというのだ。その相手にふさわしいとして逆指名したのが三沢が手塩にかけた鼓太郎だったということだろう。
「プロレスって最初の後ろ受け身から始まって、高度な技術までを1から10までとすると、1から5までは普通の試合ではあんまり使わないんですよ。6から10で試合は組み立てられるし、あるいは1から5の内の2をまったく知らなくても試合は成立させられる。今の時代は6から10でやっちゃえるから、必要ないのかもしれないし、それでいいのかもしれないけど、僕らの時代は1から5というのを標準装備していないと試合ができなかった」というのは、ここ数年の秋山の口癖。
そう、ジャイアント馬場の弟子・秋山準と三沢光晴の遺伝子・鈴木鼓太郎のEXTREME戦では“プロレスの1から5”が見られるに違いない。
文/小佐野景浩



