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【ドラマティック・ドリーム・コラム】ジョーイ・ジャネラは“紀元前”もクレイジー、同じサスケメイニアとして聞いてみた(“サスケソムリエ”鈴木健.txt)

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  • 「アメリカにもね、ものすごいサスケ信者がいるんですよ!」――2019年4月、レッスルマニアウィーク中に現地で試合をおこない、帰国したザ・グレート・サスケがドヤ顔で語ったのはそれから2カ月後のみちのくプロレス後楽園大会だったと記憶する。なんでも自分を神として崇めるがあまり、対戦する夢を実現させた男がいるのだという。

    深夜の3時すぎにボン・ジョヴィの『イッツ・マイ・ライフ』をオーディエンスも一緒になって大熱唱したニュースはすでに伝え聞いていたのだが、対戦相手がそこまでマスターに傾倒する人物だとは知らず、サスケソムリエとしてまだ見ぬサスケメイニアにシンパシーを持ったものだった。その男……ジョーイ・ジャネラのエピソードについてはタカ中山さん執筆の「ドラマティック・ドリーム・コラム」で紹介された(https://www.ddtpro.com/news/18468)。

    大仁田厚とサスケのノーロープ有刺鉄線電流地雷爆破ダブルヘル時限爆弾デスマッチを海賊版VHSテープで見て、人生がひっくり返るような衝撃を受けた9歳のジャネラは「日本のプロレスラーが爆死したシーンを見せてやる」とクラスメイトに喧伝し、自宅で毎日のようにビデオ鑑賞会を開催していた。つまり、この時点で人を集めるにはどうすればいいかを考える少年だったことになる。

    「その頃、スクールにおける子どもたちの月曜日の話題はポケモン、スパイスガールズ(イギリスのポップアイドルグループ)と月一のWWE PPVショーだったんだけど、俺はそんなものよりもすげえのを見せてやるって集めて。お袋には『あんた、何そんなもの毎日見てんの!』って叱られるんだけど、爆破にしろ有刺鉄線にしろ日本っていう国はこんな狂ったことをやってんのか!ってたまらなくて。だから9歳の時点で俺は日本にいってこういう試合をするんだって決めていたのさ」

    過激なプロレスビデオを友達へ見せたいがために、ジャネラはニュージャーニーの狼少年よろしくプロモーション活動をおこなった。“THE BAD BOY”はモノホンのバッドボーイだったのだ。大日本プロレスでおこなわれたケンドー・ナガサキvs松永光弘のピラニアデスマッチにハートをわしづかみとされた時も「本当に人間がピラニアに食い殺されるビデオがあるから見に来いよ。日本のプロフェッショナルレスリングはな、人が死ぬんだぜ!」などと言いふらしては、自宅のリビングを札止めにした。

    このように、9歳で覚醒したジャネラだがそれ以前はどんな少年だったのか。聞くと、プロレスを好きになったのは祖母の存在が大きかったという。ブラウン管の中で暴れるハルク・ホーガンやテッド・デビアス、ランディ・サベージが記憶に残っているので、年代としては2、3歳の頃。物心がついた時からプロレスなるものは理解できずとも、テレビに映る有名人として認識した。

    祖母の家には、そんな体の大きな男たちのグッズが山ほどあった。まだWWEが高校の体育館のような小さな会場でハウスショーをやっていた時代、地元へ来た時に足を運んだお婆ちゃんはアンドレ・ザ・ジャイアントやゴリラ・モンスーンに会ったことをおとぎ話のように何度も聞かせてくれた。

    そうした環境にあったから、小学生になった頃のジャネラはすっかりプロレスファン……いや、プオタとして成長。WWEはもちろん、WCWができるとレイ・ミステリオらが活躍するクルーザー級のスタイルがお気に入りとなり“ストーンコールド”スティーブ・オースチンが初めてのマイ・ヒーローだった。

    「だから例のアレと出逢うまではいたってノーマルなレスリングファンだった。ところが……あの海賊ビデオを購入してからはすっかり傾向が“そっち”にいっちゃってね。2本買ったんだけど、一本が『ベスト・オブ・ザ・バーブドワイヤー』というタイトルで、オーニタさんとアンクル・サスケ(ジャネラはサスケをこう呼ぶ)のエクスプロージョンマッチが入っていて、もう一本の『カワサキドリーム』(1995年8月20日のIWA JAPAN川崎球場大会)にテリー・ファンク、カクタス・ジャックが映っていた。そこからは日本のインディーシーンにハマっていったんだ。

    普通はWWEの方にあこがれるって? 俺はまったく思わなかった。だからこそ、まだアメリカ国内で爆破マッチをやっていないんだ。つまり、やるとしたらオーニタサンと、それもタッグじゃ意味がない。シングルマッチで彼とやるのがガキの頃の夢だったから。マツナガサンにも夢中になったものさ。ピラニアにサソリ、ワニ……ってこうして並べるだけでクレイジーだよな。マツナガさんは俺とザンディグの映像(10メートルの高所から火のついた蛍光灯&有刺鉄線塔に落下)を見てくれていたらしくて、会う前にFacebookでメッセージをくれていたんだ。だから、GCWのジャパンツアー中にマツナガさんの店(ステーキハウス ミスターデンジャー)にいって会えたのは本当に嬉しかった。キクタローから『松永さんは笑わない人だから』って聞いていたんだけど、スマイルで迎えてくれたよ(子どものような笑顔)」

    9歳の時点で日本へいってハードコアな闘いをやると人生を定めたジャネラだけに、プロ入りするまでじっとしているような青年には育たなかった。同じようなイカレた友人とバックヤードレスリングをやり、屋根の上から飛び降りたり画びょうや蛍光灯を使ったりした。

    つまりはアマチュアデスマッチ。プロの興行ではないから観客を集めて収益をあげるのが目的ではなく、それをビデオに収録し自分たちでテープがすり切れるほど見まくってはゲハゲハと盛り上がるのがハッピーだった。

    「でも、そのうち自分たち以外の誰かにも見てもらいたいと思うようになって、学校のガールフレンドを何人か呼んでみた。子ども用のプールに蛍光灯を浮かべて、その上に落ちていく瞬間を彼女たちが見るという。まあ、今思うとケガしたところで治療費は自分持ちなのによくやったなって思うけど、当時は『死ななかったからOKじゃね?』としか思わなかった」

    おそらく、女友達を誘う時は「俺たちのプロレスリングを見に来てよ」程度にしか言っていなかったはず。いきなり「蛍光灯に突っ込む」などといったら引かれてしまい、ギャラリーを集められない。ここまででお気づきかと思われるがジャネラは正真正銘、クレイジーなことをやる目的でプロレスラーになった男なのだ。

    もちろん、プロとしてのキャリアを積んだ現在はトラディショナルスタイルも対応できるのだが、それを試合で見せるとプロモーターが「なんだよ、レスリングもできるのか!」と驚いた二言目には「でも、そういうのはいいから狂ってくれ」とリクエストしてくる。その要求がエスカレートするにつれてジャネラがトライした結果、よりクレイジームーブになり現在のステータスを築いた。

    ジャネラの公式プロフィルは17歳でプロデビューとなっているが、本人に聞くと“紀元前”があったらしい。15歳の頃、ニュージャージーにあったNWS(ナショナル・レスリング・スーパースターズ)という小さなプロモーションのショーを手伝っていた。

    「その団体で、猿やバナナの着ぐるみに入るアルバイトみたいなことをやっていたんだ(スマホに保存したその画像を自慢げに見せる)。一応、そこでトレーニングらしきこともやっていたんだけどある日、コーチ役の男からやってみろって言われたことをこっちがなんでもこなしてみせたら『おまえ、チケット何枚売れる?』って聞いてきた。15枚ぐらいなら売れるって答えると『そうか。じゃあ、次から試合に出してやる』って言われて、それが初めてのプロのリングだったんだ。まあ、本当にプロを名乗れる前のオハナシさ。ジャイアント・シルバ(新日本、ハッスル、PRIDEにも参戦した230cmの大男)に動物がぶつかっていくんだけど、それをシルバがとっ捕まえて檻の中へブチ込む。その動物役が俺。

    そういうカーニバルみたいなことをやるプロモーションだったんだよ。2、3人ビッグネームを呼んで、あとはトレーニングもしていないような自称レスラーみたいな連中を片っ端から集めてサーカスみたいなショーをやる狂った団体が。ジョージ“ジ・アニマル”スティール(元WWEスーパースター)の猿マネジャーにもなったし(ツーショットを見せる)。まあ、そうやってリングに上がれるはずが…じっさいには15枚どころか3枚しか売れなくて、やっぱり上がれないのかなと思ったんだけど『ソーリー、3枚しか売れなかったわ。ワハハハッ!』って笑ってごまかしたら、逆に『おまえは面白いやつだな』ってなって試合を組んでもらえたんだ」

    こうして高校を卒業したままレスリングビジネスに潜り込んだものの、当然ながら駆け出しの頃はそれだけで食えず、ピザ宅配の仕事をしながらリングへ上がっていた。プロレス一本で生活できるようになったのは26歳あたりから。その3年後にサスケと邂逅し、クレイジーロードはDDTへとつながった。

    8・20大田区総合体育館大会で販売されるパンフレットには、そんなジャネラがDDTで実現させたいと思っている常軌を逸したデスマッチのアイデアをいたく熱心に語っている。じっさいに会った彼は――紛うことなくサスケ信者特有な得体の知れぬ幸せそうな目をしていた。

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