2022年11月18日、D王GP公式戦の遠藤哲哉戦を最後に椎間板ヘルニアと診断され長期欠場に入った。吉村直巳。リングを離れている間もセコンド業務などを続けてきたが、2年4ヵ月の長期欠場を余儀なくされながらも4・6後楽園ホールでカムバックを果たす。その間、本人を支えてきたのはなんだったのか。(聞き手・鈴木健.txt)
何年かかろうとも「手術を受ければ
戻れる」という結論の方が重要だった
――3・20後楽園で復帰発表をした時、2年4ヵ月間もリングに上がれない日々が続きながらよくぞ地道に回復へ努めてきたなと率直に思いました。ましてやこれが3度目(2018年12月に頸椎捻挫1ヵ月、2020年11月にヘルニアで半年の欠場を経験)でしたから。
吉村 いやー、実際は辛抱強く、根気よくやったなっていうのが自分の中にはないんですよ。コルセットをつけた状態でも会場にはいっていたし、練習場にもジムにもいっていたしで、欠場して手術もして、入院もしたけどそれ以外の生活はまったく変わっていなかったので、自分の中で耐えた2年間という感じではないんですよね。頑張ってきたねって言ってもらえるんですけど、特に頑張った認識も意識もなくて、できることをずっとやってきただけでしかない。だから言っていることはわかるんだけど正直、ピンと来ないんですよね。俺はその意識、ないよっていう感じで。
――とはいえ目の前でほかの選手が活躍しているところを見るわけじゃないですか。そこで一日でも早く戻りたいとはならなかったんですか。
吉村 それがならなかったんです。その「一日でも早く」が無理なことを自分でわかっていたから。そうは言うても手術を受けるようなことなわけだし、コルセットをしているわけだしって思うと、早くここに戻る意識より「俺は絶対に戻るから、そこまでの道筋を確実に歩いていこう」という受け取り方でした。だから早く復帰しなければみたいなあせりやプレッシャーみたいなものもなくて。
――試合ができないことの辛さを感じなかったのですか。
吉村 今はできなくても、治ったらできるしと思っていました。それはもう、最初の手術を受けるってなった時点からですね。
――過去に2度の欠場経験があったから、あせっても仕方がないと思えたところはあったんでしょうか。
吉村 ああ、それはあったかもしれないですね。かもしれないって言ったのは、そこまで深く考えたことがなかったからなんですけど。
――3度目ともなると、ネガティブな感情が出てきても不思議ではないじゃないですか。なんで俺ばっかりこういう目に遭うんだとか、後ろ向きの感情が芽生えてもおかしくない状態であったと思うんですけど。
吉村 手術を受けないといけないですって言われたタイミングでは落ちたかもしれないですけど、すぐに「それって、手術を受けさえすれば戻れるんじゃん」に切り替わっていましたね。それこそ3回の欠場が全部首だから、自分の首が悪いのはわかっているわけだし、それまでは安静だ、治療をどうするだとやっていたのが今回は手術するほどなのか。でも、手術を受ければプロレスを続けるようになれるんやったら、受けて、やることやっとけばええやんかって。
――ただ、その時点ではどれほどの時間がかかるか見えていないわけですよね。
吉村 そうでしたね。ただ、2年だろうが5年だろうが、10年かかったとしても、その時の自分にとっては「戻れる」という結論の方が重要だったんです。
――ポジティブですねえ。
吉村 ポジティブでしたね、ホント。切り替えが早くなったというか、気づいたら切り替わっていました。
――今回のケガは過去2回となんらかの因果関係のあるものだったんでしょうか。
吉村 因果関係はあると思います、蓄積の問題なんで。ずっとあったものが、何かの一発で溢れたって言えばいいんですかね。なかったということではないんです。ずっとちょこちょことあったものが最後に出た形だったので。だから、ずっと向き合ってきたことではあったんですよ。月に2回は治療にいって、できることとできないことを自分の中で分けてやってきました。だから、一番ヒドい状況がいつだったかを言うと、その溢れ出た時になるんです。全身が痺れて、倒れていて下に触れているのにその感覚がないから、体が浮いている感覚になりました。手術を受けたのは年が明けて2月だったから、3ヵ月後ですね。
――その間は普通に動けたんですか。
吉村 コルセットは絶対につけないといけないと言われましたけど、普通に動いていましたね。その間も病院にいきまくってはいました。要は検査して診察して、検査して診察しての繰り返しで。でも電車移動とかご飯を作って食べるという日常生活の部分は問題なかったから、普通に過ごせた3ヵ月だったんですけど。たぶん、お医者さんがよかったんですよ。全身麻酔から起きたら痛みがあるとかじゃないんです。何もなくて、スマホ触ってもいいですか?と聞いて大丈夫だったのでまず自分の親に手術が終わったと連絡して、翌日に検査があるというので車イスに乗せられたんですけど、入院生活で車イスを使ったのはその時だけでした。その時も「全然歩けるんですけど…」って言ったんですけど、それでも一応歩行器を使ってくださいって言うんで、翌日はトイレにいく時に歩行器を使って、3日目からは歩行器なしで普通に歩いていたぐらい元気にリハビリをやっていたので、俺だけノリノリでしたね。
――リハビリって元気にノリノリでやるようなものじゃないですよ。術後の痛みは?
吉村 痛くも痒くもなかったです。確かに動かないことは動かないんですけど、歩く時はコルセットをつけるし、寝る時は外してもよくて横を向く時は体ごと向かせればいいんで、違和感はなかった。リハビリ用の部屋がいつも空いているわけじゃないから、先生がこれを使いなよって握力をカシャカシャするのとゴムチューブを貸してくれて、自分のベッドが置いてある範囲なら動いてもいいと言われたんで毎朝リハビリが終わってからストレッチや、ベッドに押しつけて上がるボックススクワットみたいなことやるぐらい元気だったんです。それで退院する時は車で迎えに来てもらったんですけど、そのまま道場にいって見学して、あとは練習がある日は道場にいって、大会がある日には会場にいくという日常です。地方には帯同しなかったですけど、都内と横浜のラジアントホールぐらいならいっていました。
首の手術をする時はやっぱり
生き死にを意識したんです
――それほど元気でありながら2年以上の時間を要したのはなぜなんですか。
吉村 首の経過に関しては病院判断なんですけど、筋肉に関しては治療院の先生に聞いていたんです。ケガをした時からコルセットをつけ続けて、首をまったく動かさない期間があったので首の周りの筋肉をほぐしていく時間が半年ぐらい必要で、それからトレーニングを本格化していきました。そこは少しずつ…リングの上への上り下りから始めて、ジムにいってもマシンは使わないようにして、ものすごく細かく段階を踏んでやったんで時間がかかったというより、時間をかけた。
――やはり急いではいけなかったんですね。
吉村 そうですね、急ごうともしなかった。いろいろな人から「しっかり治して戻ってこい」って言われたんですけど、僕はそれを100%鵜呑みにしてみたんです。「ドロップキック」に出勤した時や営業先のお店にいって喋る時もそういう声を真に受け止めて「その熱量を持ったまま待っていてくださいね」って言い続けました。結局、僕が大丈夫だったとしても、僕以外の人…その最たるものが親ですけど、こいつは首をケガしたやつっていう見方はするじゃないですか。そこをちょっとずつ、時間をかけてでも薄くしていきたかったんです。けっこう頻繁にトレーニング動画や受け身の動画をSNSに上げていたのは、できるっていうのをバーッて出しておけば、試合を見る人も試合で当たる人たちもこいつはできるってわかった状態でいられるじゃないですか。
――ケガした人間というイメージを払しょくするための時間だったと。
吉村 休んでいる人間は、休んでいるなりに考えるんです、自分の帰っていき方のようなものを。でもそれは目途が立っているから考えられることであって、僕の場合はその目途が見えなかった。じゃあ、その間はずっと鳴りを潜めるのかといったらそれは違うとなって、表に出てお手伝い的なことには全部やろうと思ったんです。ドロキもわかりました、入りますよという感じだったし、SNSも更新するのをやめることもしなかったし、サイン会やポートレート撮影ってなったらできることなんだから全部やりますみたいな感じで。仮に1年したら復帰できますというようにわかっていたら、じゃあこういう復帰の仕方をしようって考えたかもしれないですけど、それが結果的に2年4ヵ月になっただけで。やらずにモヤモヤするよりも、やって失敗した方がいいと思いました。それを言うたら勝俣さんなんて(欠場中も)歌って踊っていましたからね。
――休んでいる間にDNA世代よりも若い選手たちがどんどん上にいっていました。それをリングサイドから見ていると、越されたとなりますよね。
吉村 いや、ならなかったッスよ。越されたとは誰一人として思っていないです。ただ、そういう後輩たちの試合…今度、高鹿が無差別級に挑戦しますけど、そういうのをセコンドについて僕が一番近くで見ているからこそできるアドバイスはあるんですけど、そこに後ろめたさはちょっとありました。誰も思っていないとしても「あんたは試合をしていないだろ」っていうのは僕が一番思っていたことで。それでもここはこうだからって言えるところはあったので、それでセコンドについていたところはあります。
――高鹿選手はすごく感謝していましたよ。
吉村 そうですか。だとしたら嬉しいですけどね。休んでいる間は、そういう形で後輩たちのサポートであったり力になれたりするならそれでいいかな、だったんで。
――もともとあせらないタイプなんですか。
吉村 この2年ぐらいは、ほぼほぼドロキにいてお客さんと話す機会が多いわけじゃないですか。そこで、僕と上野さんは異常なぐらいに落ち着いているって言われるんですよ。冷静というか、大人な感じがすると。そこが関係しているんですかね。
――達観しているのか。
吉村 そんな感じです。でも自分では気づかないし、上野さんを大人だと僕自身が思っているから。店長代理を2人でやっていた時も、ややこしい話は全部上野さんに任せちゃって、その代わり現場は俺が見るっていう棲み分けがなんとなくできていたし、今も僕は一歩下がって見るのがたぶん、好きなんですよ。得意とかじゃなく、好きでやっている。ハリマオの中でも俺が俺がというよりも樋口さんがいる、中津さんがいる。石田がいる、だから大丈夫という安心材料があったからあせらなかったと思うんです。樋口さんも欠場しましたけど今回復帰したし、ここに来て石田がすごくハマった感が出てきた。そのタイミングで僕にもGOサインが出たから、本当にここからやなって思えるし。
――最終的にはお医者さんがGOサインを出した形ですか。
吉村 お医者さんのGOサインは、実を言うと1月ぐらいに出ていたんです。ただ、そのあと治療院の先生とは相談していて、両方のGOが出たのがこのタイミング。
――話を聞くと、本当に一つひとつ段階を踏んできたことがわかります。
吉村 これはネガティブにとらわれると嫌なんですけど、首の手術をする時はやっぱり生き死にを意識したんです。セコンドがどうだ、毎日のツイートがどうだ、会場にいく、練習する、ドロキに入る…これ、全部今しかできへん気がして。今までずっと意識もせずにできていたものを、全部意識してやってみるっていうようになったんです。そして医者の言うことを100%聞こう、1年半酒を抜こうって、そこまでやった。
――生き死にを意識することで徹底できたと。
吉村 そういう部分はあったと思います。あとはこのキャリアで、一応実績を残してきた人間が第1試合からセコンドにつくことって今のDDTではないから、ちょっと面白いなって思ったんです。最初は、ハリマオのセコンドにしかつきたくないなっていう気持ちもありましたけど、若いやつらが頑張っている姿が頼もしくて。じゃあ、その頼もしいやつらが試合に集中できるようにするためには、俺ができることをやればいいんだって。この前の後楽園で、ちゃんと話したら長くなるって言ったのは、そういう気持ちのことであったり、一つの行動に対しいっぱい理由があったりで、自分を正当化する理由がいっぱいあった。 でも一番大きかったのは、全部の言うことを聞いてみたら面白そうっていう。
BASARAで第1試合のセコンドに
先輩たちがついていたのを見て…
――そこに気づかせた何かがあったんですか。
吉村 プロレスリングBASARAだと思います。中津さんが出るからセコンドにいったら、第1試合のセコンドに関根龍一さんと塚本拓海さんがついていたんですよ。確か中野貴人vsリル・クラーケンのような若手同士の試合だったんですけど、大先輩が紙テープを片づけて、コスチュームを下げて試合が始まったらお客さんを避けさせているんです。それを見た時に、このキャリアと立場、この実力でできるのはすごい!と思ったんです。そこで、これをDDTでやったら面白いなってなりました。
――よくそこを拾ったなと思います。
吉村 それはたぶん、今自分ができることは?というのが前提にあったからなんだと思います。
――いや、欠場中は何もしなくても許されるものでもあります。
吉村 自分がやれば、吉村が動いているんだから自分たちもはよやらなって後輩たちが思ってくれるかもしれない。それは責任感なんていうものではなく、面白いか面白くないかなんですよ。面白いものが自分の中で優先。
――バックステージコメントで「いろいろな人に恩返しをしなければいけない」と言っていました。
吉村 単純ですよ、それこそ(Xで)いいねをくれたり、会いに来てくれたりということに対する思いです。また聞きでも…それこそ先ほどの高鹿の話のように、吉村の名前が出てきましたよということだけでも全部自分にとっては、忘れられていないだけでみんなにありがとうなんですよ。忘れられないことは行動としてやっていたつもりであっても、今のDDTを見ていると自分が試合をしていた時とはまったく違う世界のような気がするからこそよけいに、吉村直巳っていうものを支えてもらったっていう気がして。だから、全部ですよね。会場で話かけてくれる先輩後輩もそうですし、自分のポートレートを買ってくれた人、生写真が当たりました!て言ってくれる人、全員が吉村直巳を忘れずにいてくれた。それって、当たり前じゃないんだよなってこの2年間思ってきました。プロレスをやっているから応援してくれているのに、そうじゃない人間になっても応援できるって、すごいことだと思うんです。それに対するありがとうという気持ちがあるので、リングに戻るからには何かしらの形で僕が返していかないといけないんだって思います。
――欠場中に言われたことで強く残っている言葉はありますか。
吉村 いや、それがなかったぐらいにみんな普通でした。それがありがたかったんです。特別扱いをしてくれない方が自分にとってはよかった。それはやらなくていいよみたいなのは最初の頃にあっただけで、自分の方もできることはやらせてくださいというスタンスだったから、僕がいることを当たり前のものとして接してくれたのはありがたかったんです。
――復帰するにあたっての負傷箇所に対する不安は?
吉村 問題ないです。さっき言った通り、世界が変わっていると思っているんで、その中に入っていくのが楽しみで。だから復帰を発表した時はお客さんの反応が意外だったんですよ。えっ、みんな俺のこと知ってんの!?みたいな。知らない人の方が多いと思っていたので。武知海青からDDTに入ってきた人がいっぱいいるわけじゃないですか。僕の試合を生で見たことがないファンの人たちが多数いる中で、あの反応をもらったのが新鮮であり、ビックリしたし、そしてありがとうって思ったし。今は、そういう見ていない人たちの前で試合をするのが楽しみですよね。逆に、めちゃめちゃズラしてやろうって思ったりもするんですけどね、ハハハ。思っていた吉村とちゃうぞ!みたいな。
――小技で勝ってしまうような。今のリング上では、何が関心を引いていますか。
吉村 うーん、今のタイミングで聞かれて頭に浮かんできたのは後輩ばっかりですね。
――上野選手、MAO選手のような同世代はまだ意識の中に入っていない?
吉村 あの世代が今のDDTのベースだとみんなとらえていると思うんですけど、僕はそこじゃないところをっていうのが常にあるんで。欠場前まではそれに合わせたいと思っていたんです。でも今は、それをどうやってズラすかという考えになっていて。一瞬のリズムを狂わせる何かがあればいいなとか…言い方はアレかもしれないけど、あの人たちが今のDDTの“正義”に見られている。
――正統路線ですね。
吉村 そこにちょっとした転調、ノイズ、不協和音があった方が面白い。この考えも、BASARAを見ていたからなんですよ。DDTのスタイルじゃないから、そっちのリズムを採り込みたいなというのがあるんですよね。
――異彩を放ちたいと。
吉村 あとは、遠藤さんですよね。
――欠場のきっかけとなった試合の相手。
吉村 気づいたらお隣さん(プロレスリング・ノア)にいっていましたけど、僕は遠藤さんがNOAHにいってユニットに入ったりベルトを獲ったりってなったのはけっこう嬉しかったんです。遠藤さんって、体はすごいしなんでもできてしまう。だからこそバランスをとっちゃうんですよ。俺はそれが嫌というか…嫌って言ったらおかしいか。「あなたは一番になれますよ!」っていう、樋口さんに対しずっと思っていたことを遠藤さんにも感じていて。
――あなたのポジションはそこではないでしょうと。
吉村 そうそう。バランサーじゃなく、常に一番を獲りにいく遠藤さんに高鹿もあこがれていたと思うんです。それが今は、明確な目標が遠藤さんの中にあって仲間もいる…「いった!」と思いましたよね。
――その「いった!」遠藤哲哉とやってみたい。
吉村 はい。今じゃなくても、DDTに帰ってきてからでいいんで、NOAHでやりたいことを全部やったあとに。
――しばらくはフル出場という形はとらないと言っていたのは、負傷箇所の様子見という意味での選択なんですか。
吉村 僕の中ではそうです。いきなり前線に入るよりは検査を受けつつというようにしていきたいんで。その中でBASARAにも出てみたいと思うし、気がついたら吉村の試合、ちょっとずつ増えてきたなって思うかもしれない。そこも一つひとつを着実にやっていくことに変わりはないです。