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【7・13後楽園で無差別級挑戦、7・27は地元・青梅で凱旋興行――HARASHIMAインタビュー】僕らの世代が市長になる時代までプロレスを続けられてよかったです

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  • 6・29後楽園ホールでクリス・ブルックスを破り、第85代KO-D無差別級王者となった樋口和貞に挑戦表明をしたのは、7月27日に初の地元凱旋興行(住友金属鉱山アリーナ青梅)を控えるHARASHIMAだった。タイトル戦が7・13後楽園でおこなわれることにより、勝てばベルトを巻いての凱旋となる。キャリア24年にして初の地元興行をおこなう動機や実現にいたるまでの経緯、そして勝てば11度目の戴冠となるタイトルマッチに向けての思いを聞いてみた。(聞き手・鈴木健.txt)

    10年以上も開催できる会場を探し
    続けていた中で訪れた偶然の出逢い

    ――青梅市内でのプロレス興行に関して調べたんですが、2005年11月2日にSPWFが東芝青梅工場お祭りステージで、また2004年8月22日には全日本プロレスが新町西東京レーン横広場で開催していますが、屋内施設を使用した大会となると昭和の時代までさかのぼらなければならないかもしれません。
    HARASHIMA 少なくとも、今回使用する住友金属鉱山アリーナは初開催です。ネーミングライツされるまでは青梅市総合体育館だったんですけど、昔からあった体育館で(1980年9月竣工)、僕もそこで成人式を迎えました。それから数えても30年ですからね。昔ながらの体育館なのでちょっと空調は弱いんですけど、夏の多摩地域の卓球大会を開催しているので問題はないし、それぐらいの方が昔のプロレス会場の夏っぽさが体験できていいんじゃないかと。
    ――地元・青梅でDDTの大会をやりたいというのは、いつぐらいから思っていたことだったんですか。
    HARASHIMA 10年~15年以上前だと思います。高木さんが「みんなの地元でやろう!」と言って、僕は出身地を公表していなかったんですけど(当時のプロフィルはヒーローシティー出身)考えはしたんですよね。やるとしたら青梅か多摩地域、あるいはウチ(実家)から一番近いところになるか…でも、一番近いのって新宿FACEになっちゃうなと。
    ――まったく地元感がないです。
    HARASHIMA 新宿から電車で一本なんで、近いといえば近いんですよ。でも、時間的には1時間以上かかるから、地元の人もあまりこっちまでは出てこない。だからなるべく近い会場を探しはしたんです。今回も「近くでやるから見にいく」と言う人が多くて、都心の方に出ようとはしないんですよね。それこそ、中学時代の同級生で今もずっと青梅に住んでいる人がけっこういます。それで、立川競輪場の駐車場で全女がやったことあったなとか、あとは八王子のマルチパーパスプラザですね。でも、青梅からだと近いわけではないし、そもそも会場自体が今はもうない。福生市体育館も昔、新日本プロレスが使っていて、聞いたら担当の方が「昔、見にいきました!」って、いい感じで話が進んだんですけど結局、その担当の方が変わってしまったり、建物が老朽化したのでできないですとなったりで断られたんです。
    ――けっこう会場を探し回ったんですね。
    HARASHIMA それで本当に偶然だったんですけど、アンジェさん(DDT初期からヘアメイクをしており、現在も多くの選手たちがお世話になっている)のお客さんで、西多摩地区でいろんなイベントを企画している人がいて「青梅出身のHARASHIMAというプロレスラーが地元や多摩地区を盛り上げるために大会をやりたいと言っているけど、会場が見つからないらしいんです」と話したらしいんです。そうしたらその方が動いてくれて、もちろん住金アリーナが最初の候補にあがったんですけど、当たってみたらやっぱり前例がないので貸せないと。それがこの数年での話だったんですけど、その方の知り合いに議員秘書をやられている方がいて「私がいろいろとつなぎます」と言ってくださって、地元議員の方や市長さん、スポーツ協会を巻き込んでイッキに動き出したんです。
    ――なんとまあ。
    HARASHIMA 去年、青梅市長が変わったんですけど、その方がいろんなことをどんどんやって青梅を盛り上げたいという姿勢を持っている方で、いい方向につながったんだと思います。その大勢待利明(おおせまち・としあき)市長は僕と学年が1つ違いで(HARASHIMAが年上)、中学校は違うんですけど同じ駄菓子屋さんにいっていたという話になって。僕が通っていた中学のすぐ近くにあった駄菓子屋で、市長が住んでいた地域は坂の上の方にあって僕らの中学の生徒とは会わないように買いにいったと話していました。地元の中学校同士って、そういうのがあったじゃないですか。
    ――「おまえ、どこ中だよ?」みたいな。
    HARASHIMA そうそう。そうならないようにしていたと。市役所へ挨拶にいったら「同じ学年の人がいますよ」と紹介されたんですけど、その人が同じクラスだった子で。
    ――同級生が市役所で働いていたんですか。
    HARASHIMA そうなんです。まさかの30何年ぶりの再会を果たすという。ただ、僕は彼のことを憶えていたんですけど、僕は転校生で途中から入ってきたから彼の方は憶えていなかったという。
    ――あるあるですね。
    HARASHIMA まあ、団塊世代の子どもで8クラスもあった時代だから無理もないんですけど。そこからトントン拍子で話が進んで。
    ――要は市がバックアップしてくれることになったんですよね。けっこう大きな事業になりました。
    HARASHIMA 市長もお会いしたらすごくフレンドリーな方で、やっぱり青梅を盛り上げたいというところで共感していただいて。アンジェさんを通じて知り合ったその方にも一緒に動いていただいている。僕なんて本当、いるだけですよ。
    ――そんなことはないでしょう。
    HARASHIMA 自分でも動いた中では、地元のお祭りのような人が集まる時にいって宣伝しました。今年の5月だったんですけど、その日はかつてないぐらいの大雨が降って全然人が集まらず、それでもビショビショになりながら歩行者天国になった両脇に出店が並ぶ商店街を練り歩いたんです。そうしたら「こんな大雨にもかかわらず来てくれたなんて!」と逆に喜んでくれる方もいて、一般客の方々とは会えなかったけど地域で顔が利く方々とつながりができました。そういうのも手応えになりましたね。
    ――青梅には転校する形で住むようになったんですね。
    HARASHIMA もともと父親の仕事の関係で4年ごとに引っ越していたんです。生まれた時は昭島市に住んでいて、そこから目黒に越し神奈川の秦野、東村山と移って、そのあとが青梅でした。幼稚園、小学校、中学校と全部2ヵ所いって、もう“ザ・転校生”。それが、姉が高校に入るタイミングになって「高校の転校は大変だから」と青梅に定着した。一番長く住んでいるのが青梅だから、地元といったら僕の中では青梅なんです。
    ――目黒以外は、どこも身近に自然がある環境ですよね。
    HARASHIMA あー、そうですね。秦野はめっちゃ田舎だったし、東村山は今では住宅街になっちゃいましたけど林がけっこうあったし、青梅はもう自然豊かです。川も山もあって、甥っ子や姪っ子が来ると面倒見るんで山へ探検にいったり川遊びに連れていったり。
    ――自然派なのはその時からのものだったと。
    HARASHIMA 秦野に住んでいた頃が一番で、食べられる木の実を覚えたり魚や蟹の捕まえ方を身につけたりしました。幼稚園の年長から小学3年までが秦野で、一番いい時期に大自然と触れ合えた。東村山では林でカブトムシを捕まえるぐらいだったけど、青梅で自然遊びが復活して。
    ――下町出身の身としては東京っ子でそこまで自然と密接だったのはうらやましいです。
    HARASHIMA 青梅市というのは本当に自然豊かで、八王子に続いて東京では2番目に広い市なんですけど、コロナ禍の時に東京から出てはいけないみたいになったじゃないですか。その時に青梅やその先の奥多摩に来る人たちが増えたり、最近では自然に恵まれた移住先としての人気が高まったりしているようなんです。それで住みやすさのランキングが上がっているとか。さっきも出ましたけど、田舎といっても新宿まで電車一本で出られるわけですから、それほど不便ではないですしね。
    ――青梅におけるプロレス熱に関してはどんな感じなのでしょう。
    HARASHIMA 中学生時代はそこまでじゃなかったと思います。新日本プロレスが夕方4時に放送している頃で、獣神サンダー・ライガーさんが出てきたあたりでした。蝶野正洋さんがG1 CLIMAXで優勝して盛り上がった記憶があります。あとはストロング小林(金剛)さんの出身地(戦時中に本郷から疎開)なので、ちょっと年がいった方とプロレスの話題になるとその話になりました。「あそこでよく見かけたんだよ」という目撃情報を聞きました。僕は街中で見たことなかったですけど、出身中学が一緒なんです。
    ――ええっ!? アントニオ猪木さんと昭和の巌流島対決をおこなったストロング小林さんが中学の先輩! それこそ、引退式をおこなったのが先ほど出た福生市体育館でした。
    HARASHIMA 本当の話なのか都市伝説かはわからないんですけど、小林さんが中学の吹奏楽部に楽器を寄贈したという逸話を聞いたことがありました。そういう街ですけど今回、プロレスを開催するにあたってけっこう反響があるので、当日は盛り上がると思います。地元の皆さんにプロレスを生で見てもらいたいっていうのはもちろんですけど、おそらく今回が初めて青梅市にいくという方もたくさんいると思うんですよね。
    ――23区組は特に。
    HARASHIMA そういう皆さんに、青梅の自然を知ってほしいというのもあります。でも、体育館の最寄り駅・河辺(かべ)は、青梅の中でも都会ですよ。駅前には大きなショッピングのお店もあるし。河辺の隣が東青梅駅で、そこから先は単線。そのあとが青梅駅で観光地として力を入れていて、そこからは電車から見る景色も田舎ですね。
    ――青梅駅といえば、最近は青海駅と間違えられてZeppなどのイベント施設にいく人が間違えて青梅にいってしまうというケースが見られているようですが。
    HARASHIMA 本当に青梅駅では注意書きが貼られていますからね。引き返すには1時間半から2時間かかるんで、7月27日は間違って青海の方にいかないよう、気をつけてください。
  • 僕が経験していない長期欠場を乗り越えた
    強さを持つ樋口は芯が太くなっている

    ――6・29後楽園で樋口和貞選手がKO-D無差別級新チャンピオンになった直後、挑戦をアピールしました。ベルトを巻いて地元凱旋興行に出るべくあのタイミングを狙っていたと映りました。
    HARASHIMA どっちが勝っても挑戦表明しようとは思っていたんです。ただ、名乗り出た時点ではどこで組まれるかわからないわけですから、7月13日と聞いてそれなら間に合うなとなりました。
    ――青梅に間に合わせる、ありきでは…。
    HARASHIMA ああ、そういうのはなかったです(爽やかな笑顔)。あのタイミングで挑戦しようとなったのは、KING OD DDT1回戦でクリスに勝っていたから、それなら…と思ったのもあったし。むしろ7月13日と言われて「早っ!」ってなったぐらいで。
    ――いずれにせよ、勝てばベルトを巻いての凱旋となります。今のところ、ここ数ヵ月が7月27日に向けての線として、いい流れでつながっているなと思います。
    HARASHIMA でも、僕自身はそういう実感がないんですよね。いつも言っていることですけど、僕はその日その日を一生懸命やっているから、それが結果的につながっているというのをこういうインタビューとかで振られて気づくんです。この試合を全力でやろうというのを続けていったら、ストーリーとしてつながっている。僕はそのつどの感覚で生きているんで、人に教えてもらって自分でビックリするんですね。
    ――地元興行がベルト奪取に向けての理由づけとなっているのは大きな力です。
    HARASHIMA 確かにそうなんですけど、今回に限らず僕はいつでもKO-D無差別級のベルトというものにはこだわっていて、ずっと巻き続けたいと変わらず思っている。そういう気持ちがなくなったら終わりだと思うんで。そのタイミングとして、いろいろなものが合わさったとは思います。
    ――気運というやつですね。
    HARASHIMA その気運に本人が気づいていないという。でも、こうして動いたわけですから無意識のうちに感じていたのかもしれません。
    ――2020年1月26日、田中将斗選手へ明け渡して以来、5年半も遠ざかっています。その間、秋山準、上野勇希、青木真也と3度挑戦しましたが届きませんでした。
    HARASHIMA ただ、去年の上野戦と青木戦は僕の中でけっこう満足度の高い試合で、勝てなかったことがダメだというだけで自分の力が落ちているとかはまったく感じなかったし、まだまだ自分はいけると確信できた。どちらの試合も、どこかで自分が動けなかったから負けたじゃなかったので、衰えてはいないなと。僕自身がその衰えに気づいていないだけで、実際はそうなったから負けたのかもしれないですけど、コンディション的なことに関しては2試合ともベストだったんです。
    ――見る側から言わせてもらうと、この何20年ほどの動きに関してはほとんど下がっているようには映らないです。
    HARASHIMA コンディションを整えていい状態で上がるのは、僕の中では当たり前のことであって、その当たり前を毎日続けているだけなんですよね、感覚としては。
    ――現役を続ける中で、コンディションの浮き沈みはどうしても生じるものですよね。それこそ、樋口選手はその大きな沈みを乗り越えてきたわけです。
    HARASHIMA 僕は、ケガなどで長期欠場するっていう経験を今までしていないんです。だからその間の辛さであったり、それを乗り越えることで強くなったりできることが実感としてわからない。樋口が欠場を乗り越えたことで強くなっているのは確実だろうし、ましてや彼にも守るもの(家庭)ができた。うん、そこは今までと絶対違うわけで、過去の戦績は参考にならないんだと思います。クリスとのタイトルマッチの映像を見返したんですけど深みっていうのかな。そういうのを感じましたよね。それはくじけない気持ちであり、もともと持っていた芯がより太くなっているという意味で。
    ――樋口和貞にとってのHARASHIMAという相手は、初めてKO-D無差別級王座に挑戦した時のチャンピオンなんですよね。戦績は参考にならないと言われましたが、シングルマッチではHARASHIMA選手5連勝のあと、樋口選手が4連勝しています。
    HARASHIMA 今回はチャンピオンとチャレンジャーの立場が初めて逆になりますね。ただ、後輩のチャンピオンに挑戦することが今では当たり前になっているというか。僕が挑戦することで「もう一度ベルトを巻いてくれ!」っていう応援の声が高まって、それがエネルギーになっています。そこで「またHARASHIMAかよ」とか言われるんじゃなく「見たいです!」って言ってもらえることで頑張ることができる。この数年、言い続けていますけど、僕は今のベルトに新調されてからはまだ巻いていないんです。それを初めて巻く姿を、青梅の皆さんに見てもらいたい。
    ――ましてや大学時代の先輩である真壁刀義選手にも見せることができます。
    HARASHIMA いくつか僕の希望があった中で、やっぱり真壁さんには出てほしかったですし、こういう機会でもなければなかなかオファーできないですから。
    ――自身のカードをシングルマッチにしないあたり(HARASHIMA&真壁&ヤス・ウラノvs青木&石川修司&彰人)、いろいろな人との縁(えにし)を大事にしたのだなと思いました。
    HARASHIMA シングルマッチの方が出番も多いから見たいという声もあったんですけど、自分が少なくてもいろいろな顔合わせを見てもらえた方がいいなと。それこそ真壁さんと青木さんが対戦するなんて…。
    ――プロレス業界的にも刺激的な顔合わせが青梅で見られる。
    HARASHIMA 来られた方には最高に楽しんでほしいです。
    ――これが盛況に終わったら第2弾も考えますか。
    HARASHIMA あ、毎年のイベントにしたいです、はい。イベントとして地域の活性化につながれば、市長さんも協力していただいている皆さんも毎年ってなると思うんで。
    ――次回以後はオプションで「HARASHIMAといく青梅自然巡り」をやってください。ゆかりの場所も巡って。
    HARASHIMA いいですね。でも、駄菓子屋さんはもうなくなっちゃっていると思うんで。冷静に考えたらもう何十年も経っているんですよね。真壁さんと知り合ってから数えても30年ですよ。まったく実感はないんですけど。この10年、15年、20年は何も変わっている感じがしない。
    ――それほどの長い歳月が過ぎた中で、自分が過ごした街で好きになったプロレスをやれるというのは、それだけでもいい人生だと思います。
    HARASHIMA 本当ですよね。僕らの世代が市長になっている時代ですから。そういうタイミングまで時間を重ねたから実現するんでしょうね。やはり世代が上だとお堅い人たちだったでしょうから。こうなる時代までプロレスを続けられてよかったです。
    ――KO-D無差別級王者になったら、今のDDTの中でチャンピオンを務めるのもまた大変なのは目に見えています。
    HARASHIMA 先のことはこれから考えますけど、若い選手が伸びてきている上に若くなくてもというか、みんながいい選手なんで、そこはやり甲斐のある選手がたくさんいるのはいいことだと受け取ります。
    ――先日の新日本×DDT一面対抗戦で棚橋弘至選手と再会しましたが、同じ時代を生きてきた中でリングを去る選手も出てくる時代に入りました。
    HARASHIMA 僕は、何をもってゴールなのかって思うんですよね。先ほど言った通り、ベルトをほしいという気持ちがなくならない限り(現役は)ずっと続くっていうことと受け取っていて。棚橋さんは自分のコンディションと向き合った上で決断したと思うんです。でも、僕はそれに当たるものが今のところないというか、テーピングをしなくても普段の試合ができて、どこも痛くない。大きなケガをしてしまったり、体の限界を感じたりしたらやめる理由になるのを理解した上で、今の僕にはこんなにも大好きで楽しいプロレスをやめる理由が今のところないし、やめたくない。だから、その理由となるものが訪れないぐらい強い体に生んで、育ててくれた親に感謝するんです。その体を維持することによって、常々自分の中で思っている“今日より明日がよくなるように”をやれている。
    ――うんうん。
    HARASHIMA また古い話をしてって言われちゃうかもしれないけど、僕はDDTが小さい団体の頃からずっといて、そういう気持ちを持ち続ける中でDDTとしても人が増えて大きくなれた。それが僕にも力を与えてくれているというか。
    ――みんなでよくなりたいというのは、HARASHIMA選手が昔から変わらず言い続けてきたことですよね。
    HARASHIMA 自分が好きで続けてきたことによって、団体として大きくなれている。だから、これでいいんだって思えるじゃないですか。そこに加えて、最近は自分と同じ世代のことを考えるようになりました。それらの人たちのエネルギーになれたらって。僕自身は年齢を気にすることはないんですけど、ファンの方と話すとお父さんやお母さんが同じ年なんですって言われることがけっこうあって、そんな世代のファンも増えたんだなって実感するんです。自分もお父さん、お母さん世代のために頑張るような時代なんだなって。好きなことを変わらず続けるつもりでやっていたのが、そういうところで気づかされて、原動力になっていますね。

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