2日間にわたる今年の「WRESTLE PETER PAN」において、業界規模で断トツの注目度を誇るのは2日目の8・31後楽園ホールでおこなわれる男色ディーノvs棚橋弘至だろう。片やドインディー出身のイロモノレスラー、片や業界最大手・新日本プロレスのエースとしてプロレス界をけん引し続けてきた男と、あまりに対照的な道を歩んできた者同士だからこその、あり得ないシングルマッチ。棚橋が来年の“イッテンヨン”東京ドームで引退することが決まっているタイミングで実現したことを、ディーノはどうとらえているのか。話は、両者共通の“源流”に関することから始まった。(聞き手・鈴木健.txt)
立命館に対する嫉妬の象徴が棚橋。
同じ世界に入ったとは1ミリも思えず
――棚橋戦が決まったのを受けてのnoteを拝見しました。やはりこれは学生プロレス時代までさかのぼる物語なんですね。
ディーノ そこからでしか語れないお話ですよ。あの時代って、立命館大学のプロレス研究会の最盛期だったのよ。交流的なものは何もなくて、はた目から見る感じで見にいったことがあったんだけど、まあ凄かった。私たち大阪学院大学のプロレス研究会は硬軟入り混じっているって言えばいいのかな。それに対し立命は、ちゃんとプロレスをやっていた。具体的に言ったら、こっちはマットにビールケースのレベル対して向こうはリングがあったの。それだけでも見栄えが違う。あとは学校の規模と立地条件も関係してくるんだけど、立命の方が圧倒的に人を集めていた。そのためのスペースがあるいい条件のところでやっていたしね。それを見た時、悔しくなったのよね。
――言うなれば、メジャー感を見せつけられたインディーのような。
ディーノ そうそう! 同じ条件でやれたら、こっちの方が人を集められるし内容的にも勝るものができるのに…って思うんだけど、冷静に考えたら言ったところでどうにもならないのがわかっていた。ただ若かったから、遠巻きに見るリングの中に自分がいればという思いはどうしてもあったのね。これはもう完全に嫉妬ですよ、立命館に対する。その時期に、象徴的な存在だったのが棚橋弘至という。
――その見にいった時、ターナー・ザ・インサート(棚橋の学プロ時代のリングネーム)の試合は見ていたんですか。
ディーノ 一人ひとりの選手までは憶えていないんだけど、学プロって4年生は就職活動に入るから3年生が中心になるので、見にいったのが2年生の時だから(棚橋は)3年生だったはずなのよ(1997年頃)。だから出ていても不思議じゃない。その記憶とVHSで見たのがごっちゃになっているかもしれないけど。
――学プロなのにビデオが出回っているわけですか。
ディーノ むしろその頃がビデオ全盛期よ。偶然、私の一個下の代から立命と交流するようになって、お互いの情報交換ツールとしてよく使われていたのがビデオだったという。
――それまでは意外と学校同士の交流がなかったんですね。関東の大学はUWF(関東学生プロレス連盟)やSWS学生プロレスのように横のつながりが盛んですが、関西はそうではなかった?
ディーノ そこは単純に、自前でなんとかなっていたから。立命館と同志社は同じ京都でという感じだったんだろうけど、大阪は大阪でどこかと協力して一緒にやるという文化がなかった。中でもウチは新興団体的なところがあったし。
――ということは、学生の時点では対棚橋弘至というよりも、対立命館になるわけですね。
ディーノ そうね。ただ、その中でもモノが違うっていうのはいろいろ話を聞くうちに思っていて。学プロをやっている人間の中で「プロを目指している」なんて口にする人間はいなかったのよ。そういう視点で誰もやっていないわけだから。ましてや「学プロ上がりなんて…」と思われる時代ですよ。そういう環境の中で、プロを目指してアマレスをやりながら学プロもやって、在学中に新日本プロレスを受けて合格したけど、卒業はしろと言われてもう一度受けるという情報が漏れ伝わってくるわけです。
――大学を出たあとは、棚橋選手の方は本当にプロの世界へ入ったわけですから、追う対象とはならなかったんですよね。
ディーノ そりゃそうよね。私はプロになるなんて微塵も思わなかったから。下の世代が交流を始めた時点で、立命館に対するグヌヌ…という気持ちがぼやけたところもあったし。ただ、注目…っていうと言いすぎかもしれないけど、気になる存在ではありました。それで、私もCMAというところでプロレスラーとしてデビューしたわけだけど、それによって同じ世界になったなんて1ミリも思わなくて。向こうは新日本プロレスでこっちは月に一度試合があるかないかだから、そもそもプロレスラーの自覚がないのよ。
――1ミリも思っていなかったのが、今回一騎打ちで邂逅すると。はー…。
ディーノ 1ミリもなかったのが6メートル四方のサイズになったのよ。嫉妬心から1対1でやってみたいとずっと思い続けていたけど、ゼロから1ミリにさえならない状態が何年も続いた。新日本とドインディーなんて別世界でしかなかったから。たまたまサムライTVで透明人間(ミステロン)との試合映像が流されて、男色ディーノというイロモノプロレスラーがいるというのが知られるようになっても向こうは知らなかったでしょうし、私自身がプロなんてピンと来なかったし。
――それが「もしかすると脈があるかも」となったのは、どの段階だったんでしょう。
ディーノ SUPER J-CUP(2010年12月22&23日、後楽園ホール)に出場した時かな…いや、あれも違うんだよな。あれはジュニアの枠だったから、ヘビー級の棚橋弘至は別軸で考えていたんだ。新日本のリングに上がったと言っても、これでいつか届くかもとは思えなくて。ただ…あー、どうだろう、何ミリかはあったのかな。あのね、たぶん今じゃないって思っていた時期なのよ。今組まれても、逆に困るという考えで。飯伏(幸太)やケニー(オメガ)が出るようになった流れでこっちに来られても、準備ができていないっていうのがあって。
――準備?
ディーノ 新日本と交流できるようになったのは、DDTがそこまで頑張ってきたからだというのはあったんだけど、私の中にはただ出るのではなくもっと勝負できるはずっていう思いがあったの。あの頃って、DDTが新日本の選手とやってもチャレンジマッチ的にみられていたじゃない。だからこそ、それを崩した飯伏とケニーは凄いんだけど、そういう受け取られ方とは違うシチュエーションでDDTは勝負できる。そのための準備をしていない段階で口にしたら今、組まれてしまう可能性があると思って、私は一切棚橋戦を言わないようにしたのね。
――学生時代から追い続けてきたものが実現する目ができながら、そこでよく飛びつかなかったと思います。
ディーノ あの時期が一番危なかったわ。まあ黙りましたよ、私は。匂わせもしなかったし、感づかれることもなかった。そうは言うても、もしも組まれたら…って考える自分もいたんですけどね。本当に棚橋とやるかと言われたら、うんって言っちゃったかもしれない。でも、逆に向こうはうんと言わないだろうなというのもあって。結果的に、山本小鉄さんという別の話題(J-CUPでディーノのスタイルに激怒)に目が集まったからよかったんだけど。
――自分が口にしない一方で飯伏選手や竹下幸之介選手は棚橋戦を実現させていくわけですよね。それは羨ましく映らなかったんですか。
ディーノ それはあまり思わなかったわ。というのも、例の横一列発言ね。あれ、私も別の意味でまったく同じことを思っていたの。飯伏が通用するからって、DDTそのものが新日本のやり方に乗っかるのは違うぞって、当時から思っていた。同じ土俵に乗るんじゃなくて、こっちはこっちでちゃんと独自のことをやらないと、同じことをやっていたら飲み込まれてきた歴史があるでしょって。だから、あれは棚橋弘至が口にする前から私の中にあった見方だったのよ。でも、あの頃はDDTがいい時期だったからそこに水を差すのもどうかってなるじゃない。それでも軸としては持っておかないといけないところだから。そうね、軸足をどこに置くかという話よね。